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【しあわせのランプ】

【しあわせのランプ】

角膜移植 手術

【2005年2月3日 (木)手術報告】

1/17日曜の夜に 角膜センターから
「この週末に4人の提供者が 出ました。8眼あるので 順番が回ってきました。
提供していただいた角膜を検査中ですが都合はどうですか?」との電話、
とうとう来た…。
で、

1/18火曜に入院、

19日水曜に手術となった。

確定申告のための帳簿を持ち込み 手術までの1日半、せっせとやっていたけれど、さすがに手術の数時間前から は 手に付かず 「今まで 片目でやってきたのだから わざわざ手術を受けなくても いいんじゃないだろうか…」と弱気になってきた。

開始三時半の予定が 少し早まった。

1時間前から 看護婦さんが 瞳を小さくする目薬をさしにくる。

実家の両親も来てくれた。

昨年 具合を悪くしてから すっかり 出無精になっていた父が自分から 行くと言い出して二人で電車で来てくれた。

部屋から 手術着に着替え、車椅子で 手術室にむかう。
手術室では 3,4人の看護婦さんに囲まれ、準備される。
名前と生年月日、手術箇所を 2度聞かれた。
ははァ~手術ミスのないための確認なんだなぁと 感じつつ そのてきぱきさに感心!

またまた 手術室用の車椅子に乗せかえられ 手術台へ。
手術台は 以外に幅が狭く 腕が落ちそうだったが 右腕には 3分毎に 自動的に測られる血圧計、左腕には点滴と 人差し指に心電図?身体全体をタオルケットで包まれ 腕も手術台から落ちなくなった。

頭が動かないように ドーナツ枕。

少し離れた所で私の トントンという 心音が聞こえ始めた。

目じりの下のほうから 麻酔の注射がされ麻酔が効くまで 15分ほど目を圧迫される。

目の周りの消毒は とっても くすぐったかった。

手術室内には リラックスの為の音楽がかけられていた。 
これが 耳元で聞こえていれば・・・。

さて、私の手術は三十代後半の男の先生と若い女医さんが担当してくれるようだ。

「手術始めますよ」の 男の先生の声の前に 女医さんが 「この手術台を上げるにはどうするのかしら?」
 
この一言で【・・・エッ?女医さんが?まさか 手術は初めて?】 
急に不安になった。

声の方角から 私の頭の方に居るのは女医さん、右に男の先生。

明らかに 執刀しているのは 女医さん、指導しているのが 男の先生。
【女の人のほうが器用なんだから・・・】と 
自分に言い聞かせた。
麻酔が効いていて痛みもなく、暗い中にキラキラと明かりが見える感じがした。
「ちょっと糸を引き過ぎ、」という男の先生の声、

【こういう 技術的なことは やらせてくれる人が居るから 上達していくんだ !私の顔剃りだって そうだったんだから・・・】と

何度も 自分に言い聞かせていたのだけれど 女医さんの幾度となく発せられる「ん?」とか 「あ・・」とかの声、
 
そのうち 「クスッ」と 笑い声。
 
顕微鏡を使っての手術なので 少しでも動くことはイケない!

だけど もう~我慢が出来ない。

泣きそうだ~!

遠くで 私の 心音もトットットッと早くなっている。

顔には布がかけられているのでこちらの表情は先生には見えない。

やっと【すいません】と声を出し ついに号泣し 中断させてしまった。

看護婦さんも飛んできて 腕をさすってくれてた。

とっても申し訳なかったのだけど【先生、替わって下さい】 と 言ってしまった・・・。

「手術は上手くいっていますよ!」との男の先生の声に やっと 気を取り戻した。

まもなく 手術は終わったが 最後の方は 手袋をした指や、細~い糸、ピンセットの先が 見えた。

麻酔が切れかかっていたらしい。

今考えると いい年をして みっともなかったと 思うが あの時は 極度の緊張で悪いほうへとしか考えられず・・・。

そう、あのBGMが 耳元で聞こえていれば 気にしなくてもいい声が、聞こえることもなかったのにな~。

その後、他の手術を終え 男の先生が病室に来てくれた。

朝9:30から 夜7:00過ぎまで ずっと 手術だったらしい。

「つい、声がでちゃうんだよね~。がまんしてたんだ~ゴメンね。」と 言ってくれたが 終わってしまえば 何てことないもんで、しかも 数日後の 診察で 目の写真を見せてくれたが ほ~ント!綺麗に縫ってあった。

イヤイヤ お恥ずかしい!!
 
経過も とてもよく 今まで 0.03だった視力が 0.2までになった。入院中に 0.2まで 出る人は なかなか 居ないそうだ。

入院も 2週間の予定が 10日で退院となった。

入院中の話は 次回へと続く・・・




【200年1月18日~1月27日 入院生活】

高校生のころ 盲腸で入院して以来 30年ぶりの入院は 病院の変わり様に驚いた。

まず、夜中でも 怖くない!昔の病院は 夜中にトイレに行く時は 薄暗くて怖かったなぁ・・・。

最初の2日間は 部屋が個室しか空いておらず トイレ・洗面所付き、手術のあくる日 大部屋に移れたが、大部屋といっても 4人部屋、トイレも洗面所も付いているので 夜中も廊下を歩くことはない。

もう1つ 食事、ご飯・味噌汁はホッカホカ、酢の物は冷たく どうしてなんだろうと よ~く 見てみると お盆毎入れられる暖蔵・冷蔵と書いた コンテナ?みたいな機械に入れてあったのだ。


手術の次の日 偉そうな先生(「白い巨塔」のようにその先生の周りを大勢のの先生たちが囲んでいた)が診察してくれた。

後で看護婦さんに聞いて見ると やはり眼科で一番偉い先生だとの事、
あの イラクのモハメド君を手術した先生だそうだ。

目のガーゼを取られ、保護の為にゴーグルをする。
寝るときも圧迫したりこすったりしないように。

痛み止めの薬を飲んだのは 2回、3日間くらいは 涙がボロボロ出て、なかなか目を開けていられなかった。

角膜を縫った糸の調節で、乱視の調節も出来るらしく 入院している間に2回やった。

点眼の麻酔で痛くはないが、それをやると 半日は目の 調子が悪い。

回診は多いときは日に3回もあった。
 
病院も先生も看護婦さんたちも とても良かったけれど、夜中 時計が壊れているのかと思うほど10分おきに目が覚めたり 、スッキリしない便秘なお腹・・・。

コレは運動不足なのだと 8階までの階段を 屈伸を加えて1日2回往復した。

眼圧が上がるのは目によくないので 息切れしない程度に・・・。

そうそう 病室は7階までなのに 8階が・・・ナゾである

 

【角膜 ありがとうございました】
1番最初に 感謝、お礼をしなければいけない・・・
15日はドナーの 月命日。

朝 起きて お線香を上げた(術後、生活上の注意として煙という煙を避けて生活して下さい、とのことなので超微煙のお線香・・・煙は角膜上皮によくないらしい 目の悪い人は禁煙するだけで視力が回復す人も居るそうだ)。

私のドナーは 千葉県南部の 八十歳代の男性だそうだ。
 
自分の身体は どうにでもしていいという考えはあるが その家族の立場になった場合 臓器提供は、なかなか 決心がつかないと思う。

亡くなってもなお 痛いだろう、身体を傷つけては可哀想、という気持ちでいっぱいだと思う。

角膜提供、臓器提供をしてほしいという、本人の意志を聞いてあっても 躊躇するだろう・・・。

ドナーと そのご家族の方達には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。

角膜は血管が通っていない臓器だから 拒否反応は少ないそうだが 角膜が合わなくて入院中に 再手術が決まる方も居るそうだ。

私がいただけた角膜は透明で細胞の数も多くとてもいい角膜だったそうだ。

そういう角膜に順番が回ってきたのもラッキーだったし、そして 相性も良かったらしく 今のところ拒否反応もなく 経過もとてもいい。

もしもドナーの方が生きていたら いいお友達になれたかもしれない、なんて思ってしまう(医学的相性とはちがうのだろうけれど・・・)


同じ病室に 82歳の女性が居た。
角膜だけの問題でないらしく、4度目の手術でも なかなか 見えるようにならないと言っていた。

目薬も 私達は容器の色で区別しているけれど その方は 見えないので形で覚えていた。

足腰が弱ってはイケないと、病室前の廊下を 手すりにつかまりながら 歩いたり ベットの上でも 1,2と掛け声をかけてなにやら運動していた。

そういう人を見ると 手放しでは喜べないのだけれど・・・。

私の経過の良さを見て 初診からお世話になっている先生に「もっと 早く手術が受けられたら良かったのにね」と言われた。

二十数年前の お医者さんの 一言が ずっと 心にあり あきらめていた・・・。

今から後悔しても仕方ない!

その間に 病める人の気持ちや 色々と勉強になることもあった。

神様か仏様か?そろそろいいか なんて 今回の情報を与えてもらえたのだと、そう 考えるようにしている。

私のように あきらめている人、手術をすれば 見えるようになる人が まだまだ きっと 居るはずだ。
 
こういう情報を 広げ、そして ドナーの必要性を訴えて、 お手伝いをすることで  恩返ししようと思う。

ドナーとそのご家族、先生方、角膜コーディネーターの方々 本当に ありがとうございましたm(__)m    


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